高田直樹 著
ミネルヴァ書房 刊
題名からは何の本か分からないと思います。実際に購入を依頼された本屋の方でも題名から判断し、絵本のジャンルで探したそうです。実は新聞に連載された「教育論」を一冊の本にまとめたものなのです。
著者は高校の教師でありますが、それ以前に一流の登山家です。主な山行にはカラコルムのラトックT峰、ソ連領コーカサス、中国コングール峰などがあります。特にカラコムのラトックT峰は初登頂であり、その時の隊長でもありました。
内容は京都弁を交えながら、非常に平易な文章で綴られています。しかし、内容は読めば読むほど奥が深いをいうか何度読み返してもその都度何かを得られる本です。今までこんなジャンルの教育論は無かったように思います。表紙には「体験的教育論」とか「生き方を持たない教師に……なにが教えられるか?」とうたってあります。時々ドキッとするような本質をついた文に出会います。例えば、「管理は教育ではないし、犬に芸を仕込むような訓練とははずれる」とか「教育とはだまされるのを承知のうえで、許容はせずに受容し、相手を信じるというところにしか成り立たないのではないか……」
では私は教育のことについてどう思っているかというと、この本の中に出てくるグラフィックデザイナーの横尾忠則氏の言葉に比較的近い気がします。少し長いが引用させて頂きます。――私は「教育」という言葉を聞くだけで鳥肌が立つくらい、この言葉がきらいだ。なぜかこの言葉の裏には、強制的に人間を支配しようとする政治的なサディスティックな力が隠されているようで、近寄るのが恐ろしい感じがする。人間が人間を「教育」という言葉を借りて所有しようとする非人間的な行為が、どうも好きになれない――――
この短い文章の中で本の内容を正確に伝えるのは不可能ですので、目次の一部を書いておきます。「制服は一種の軍服かも」「教師こそ主体的な旅を」「ほんとうの教育者ってあるんか」などです。
今年の四月に上の娘が小学校に入学します。一つの望みは「主体的に生きて行って欲しい」ということです。特にこの本を読むとそう感じます。
中高校性を持つ親だけでは無く、幅広い人達にもぜひ読んでもらいたい一冊です。私の希望としては借りて読むのではなく、自分で買って家に一冊置いて欲しいと思っています。(1990/2)
手塚治虫 著
光文社 刊
フロンガスによるオゾン層の破壊、それに伴う紫外線の増加がもたらす動植物への影響。酸性雨による森林枯死や二酸化炭素の増加での温室効果。窒素酸化物による大気汚染など、現在地球規模で物を考えなければならない時代に来ています。
巨星、手塚が現代に生きる私達に送ったメッセージをまとめたのがこの本「ガラスの地球を救え」です。内容は手塚が創造したマンガの主人公達と現代とを織り交ぜながら、手塚の思いを平易な文章で表しています。表紙には「二十一世紀の君たちへ」とうたってあり、子供向けのようにも取れますが、大人達にもぜひ読んでもらいたい一冊です。
手塚はよくヒューマニストと言われています。私もその意見に反対するわけではありませんが、それよりも先にリアリストのように思えます。善も悪も現実をよく表している作品を多く創り上げたのではないでしょうか。もしそうでなかったら「アドルフに告ぐ」などの作品は生まれなかったはずです。
ウォルト・ディズニーが手塚に大きな影響を与えたのはよく知られています。そのディズニーから学んだのは「ひたむきな開拓精神、絶えず求め前進する熱っぽさ」であると語っています。そこに、手塚作品が押しつけヒューマニズムを感じさせない原動力があるのではないでしょうか。
「その思想が民族の境界を越えるかどうかは、偉大性を考えるための有力な要因の、少なくとも一つ」と本多勝一は主張しています。そして手塚治虫を「国境を越える普遍性は世紀の巨人と呼べる」とまで絶賛しています。
常に「自然保護」「生き物への賛歌」「科学文明への疑い」「戦争反対」などのテーマを通して《命を大切にしよう》をマンガの中で描こうとした、と手塚は語っています。この本、「ガラスの地球を救え」の中にも、これらの事が強く訴えられています。特に戦争反対の事が「僕は戦争を忘れない」「語り部になりたい」の二章の中に、熱い口調によって語られています。その中で「《正義》の名のもとに、国家権力によって人々の上に振り下ろされる凶刃。人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という暴力が現実にあった事を忘れてはならない」、と訴えています。ご一読の程を・・・・・。(1990/3)
広瀬 隆 著
講談社 刊
作者・広瀬 隆と出会ったのは「東京に原発を!」が最初でした。当時私は原子力関係の仕事をしており、興味を持って読みました。また、チェルノブイリ原子力発電所の大事故が大きな衝撃を与えたこともあり、続けて「ジョンウェインはなぜ死んだか」と「危険な話」「眠れない話」「ジキル博士のハイドを探せ」も読みました。その後、原発関係の本を離れて「クラウゼヴィッツの暗号文」を読みました。私は一人の作者の本を続けて読むことは少ないのですが、何故かこの時は続きました。そして出会ったのが正に衝撃の本、それが「億万長者はハリウッドを殺す」です。
この本は特に面白いとか、ためになったとか言う類の本ではありません。あえて言うなれば、やっと最後まで読んだという表現がピッタシの重苦しい本でした。しかし、最後まで読まずにはいられない不思議な本です。
現在、日米の関係は大変重要な時期に来ています。スーパー301条を初めとするジャパンバッシング。市場開放問題などアメリカの日本に対する要求は日増しに強くなって来ています。この日本にとって良かれ悪しかれ最も影響力を持っているのはアメリカであることに、異論を訴える人はまずいないでしょう。このアメリカと呼ばれている国を最も分かり易く説明した本、これが本書です。
この本を読むと日本人と同じようにアメリカ人も、北米大陸と呼ばれる巨大な島国に住んでいる人々だ、と言う事が良く理解できます。ようするに日米とも世界の動きが良くわからない人が多いようです。このように書くと不思議がる人が多いと思われますが、一度この本を読んで頂ければ納得されるでしょう。
私はこの本であの有名なハリウッドと呼ばれる場所がどの様な所かが初めてわかりました。ハリウッドは日本の芸能界とは全く異なり、知識人の集団の町だそうです。ですからロナルド・レーガン元大統領が、以前に俳優であったことに何の違和感も無くなりました。
内容は少し重苦しく、簡単には説明することは不可能ですので、帯の文章をここに記しておきます。「歴代の大統領は二家族の使用人に過ぎない!」です。そして最後にアメリカとはどのような国かを知るのにはこの本が一番良い、とだけ付け加えておきます。(1990/4)
堺屋太一 著
新潮文庫 刊
本を読み終わった後に「よかった」と感じる場合には、二種類があるように思います。一つには全く新しい知識に触れ感動した場合。もう一つは自分の考えや思いとほとんど同じ事が書かれており、自分の考えの正しさを再認識した場合です。読者の喜びは前者にあると思いますが、時には後者の様な本にも出会う事があり、まさに本書がそれでした。とは言え、内容なショッキングでした。近い将来において終身雇用制度と年功序列型賃金体系が崩壊すると言うのです。
例えば農業や商店をやっている人を考えてみましょう。三十歳の人と四十歳の人とで、四十歳の人の収入が必ずしも多いとは限らないのです。「私は四十歳の年齢にふさわしい収入を得なければならないので、その電器製品は安く売れないよ」なんて言ったら誰も買ってはくれません。こんな事は当たり前です。
しかし、日本のサラリーマンは違います。年と共に給料が上がって行きます。こんな事は太陽が東から上り西に沈む様に当たり前だと思っているようです。しかし、本書を読むとこの当たり前だと思われている事が、戦後の日本のサラリーマンのみにしか当てはまらない非常に特殊な制度だと言う事がわかります。
この年功序列型賃金体系と呼ばれる若者に犠牲を強いる制度は、二十数年にわたる高度経済成長の遺産だと言うことを初めて知りました。私もそろそろ中年と呼ばれる人達に仲間入りです。若いとき我慢してこれから給料が上がると言う時になって、「中高年は給料を上げられない」と言われても、「そりゃないよ」と叫ばずにはいられません。
この頃の好景気、人手不足による初任給の上昇。それによって「中堅社員との賃金格差がほとんどなくなってしまった」などと言う新聞記事を読むと、年功序列の賃金体系はかなりのスピードで崩れかかっているのかも知れません。賃金がある労働について与えられるものなら、ただ年を取っているからと言うだけの理由で、不当に高い(あえて不当と言う言葉を使わせてもらうと)賃金を得る事はおかしいとも言えるでしょう。
これから益々若い人の割合が減少して行きます。本書では中高年のサラリーマンに長い冬の時代が間違いなく到来する事を予告しています。またそれに対し、国家・社会、企業経営、個人生活、の三つの面からどう備えるべきかを考察しています。
三十五歳以上のサラリーマンの方にはぜひ読んでもらいたい一冊です。(1990/5)
矢口高雄 著
白水社 刊
釣りキチ三平のマンガで有名な矢口高雄が故郷での暮らしや仕事、家族などについて書いたエッセイ集、それが本書です。この本は昔は良かったとか、自然の中での生活こそ人間らしい生活だ、とかを言っている本ではありません。むしろ苦しみや貧困がリアルに描かれています。にもかかわらず、矢口少年が生き生きと至福の少年時代を送っていたのが手に取るようにわかります。
あまりの貧困のために学校に来られない生徒。その生徒達を修学旅行に行かせるためにみんなで働いた事。旅行先で先生達が闇米屋になった話。こんな話が後から後から出てきて、作者は「そんな時代だったんだョ、なんて言わないで欲しい。・・・・・必死だったのである」と語っています。
また、村の欠点としてプライバシーを守れない事などをあげています。戸数が少ない村だと村全体が大きな家族みたいなもので、個人個人の生い立ちも全て村人の知るところとなり、実に「息苦しい」と語っています。私も全くその通りだと思います。このように自分の生まれ育った所をやみくもに美化する事なく、あくまでも冷静に書いてあるからよけいに感動してしまうのかも知れません。
旅役者の一座が山里を訪れ、その座長が美しい女性であり、矢口少年はその女性に対し、ほのかな恋心を抱きます。村芝居を見た次の日に、偶然に川原で洗濯をしていたその女性、井村京子と出会います。この時の場面を少し長いですが引用してみましょう。「思い切ってボクは、すぐそばまで近寄った。ボクの足音に気が付いたのか、井村京子はフッと振り返った。(中略)だがボクは、それからほどなくトボトボと川原を後にしていた。井村京子の洗っていたものが、すり切れかかっていた腰巻きだったからである。胸の中で、何かが崩れてゆくような、そんな感じで、ボクは川岸を登って行った」。
この本と同時に読んでもらいたい本に「僕の学校は山と川」があります。マンガとの出会い、釣りや昆虫採集、アケビ捕りなどの遊びが中心に書かれています。また弟の死や初恋などの事も書かれており、思わず四十年前の東北の寒村に引きずり込まれてしまいます。この二冊は出来るだけ気軽な気持ちで読んでもらいた本です。(1990/6)