須永元とその時代


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 はじめに

 須永元と須永文庫については、佐野に住んでいる方なら一度は聞いたことがあると思います。これから須永元のことについて述べますが、須永元が生きた明治から昭和の時代は朝鮮半島が現在の二つの国、大韓民国と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国に分裂する前の話であることをあらかじめお断りしておきます。さらに参考にした資料に若干の食い違いとがある部分もありましたので、出きうる限り事実関係には注意を払いましたが歴史的な話ゆえ、この件に関しても了解願います。

 1.須永文庫との出会い

[Image]  須永文庫のことを私が初めて聞いたのは、はっきりとは覚えてはいませんが、たぶん小学校の頃だったと思います。その時は須永と言う人が学校の図書館に多くの本を寄付し、それを須永文庫と名付けて貸し出ししているものだと思っていました。それにしては学校にそのような文庫が無かったのを不思議に思ったものです。その後に中学生になりましたが、そこにも須永文庫と呼ばれている本はなく、私の疑問はそのままになっておりました。その後、私も二十代の後半になり偶然の機会から歴史には全く興味は無かったのですが、安蘇史談会と言う歴史サークルを友人たちと一緒に作りました。そこで正式な会員ではありませんでしたが、佐野生まれで現在は桐生市在住の須永元研究家と呼ばれている藤沼博さんと出会い、私も少しずつ須永文庫に興味を持ってきました。毎年5月に行っている会の自主講座である「安蘇の風土と歴史」の一講座を藤沼さんにお願いし、須永元のことを話して頂きました。今から15年ほど前(昭和61年3月22日)の休日に図書館でやったと記憶しております。その会場に入ると気品のあるご婦人が座っており、初めて見る人だったので誰だろうと思ったものです。講演の最後にその人は藤沼さんから須永元の遺族の方であると紹介されました。この時は現在住んでいる東京から須永元の話を聞くために、わざわざ佐野まで足を運んでくれたそうです。その時は何も思いませんでしたが、今回須永元のことを調べていくうちに、須永元に実子はいなかったようです。ではあのご婦人は誰かと言う訳になりますが、どうも須永家は彼の妹(守屋清子)の次女(行子)一家五人を養子として迎入れ、その方の長女だったようです。

 2.金玉均との邂逅

 現在の市営プールの場所が須永本屋敷跡で、彼はここで生まれました。生家は豪農で使用人も多く、当地の豊かな菊沢川の水を利用して水車、通称大橋ぐるまと呼ばれていましたが、それで精米業も営んでいました。父親は佐野で水車業を始めた人の四代目で市重郎と言い、水車業の組合長をやっていたそうです。佐野市史の資料編3近代に佐野水車業組合規則が載っており、最後に須永市重郎の名前を見つけることができます。その市重郎の長男である元は幼い日から和漢の書に親しみ、十代の終わりに上京して二松(にしょう)学舎で三島中洲(ちゅうしゅう)に漢学を学び、また元彦根藩家老の岡本黄石に師事し多くの文人たちに知られることになります。須永文庫の中にこの岡本黄石から譲られた数多くの書籍類が残されています。その後に19歳で慶応義塾に学び、福沢諭吉の影響を強く受けました。[Image]福沢諭吉と言えば学問のすすめを著した人であり、一万円札に肖像画が描かれている人ですから知らない人はいないでしょう。そんな人と佐野生まれの須永が深い交流を持ち、彼に強い影響を与えたと考えるだけでも、何故か気持ちがわくわくするものがあります。後年の須永の行動と福沢の論文の内容を考える時、いかに須永は福沢の影響を受けたかを伺い知ることができます。作家の角田(つのだ)房子氏は、当時は新聞にも朝鮮の記事の多い時代ではあったが、須永が朝鮮に異常なまでの強い関心を持ち。日韓併合のころまで朝鮮独立運動を支援し、また生涯を通して亡命者やその家族を庇護した動機は、福沢の対韓問題についての論説に接したためではなかったか、と書いています。またその頃慶応義塾には朝鮮から日本初の留学生が多数入学していました。金玉均は「日本がアジアのイギリスになるならば、我々朝鮮をアジアのフランスにしなければならない」と語って、日本への留学生たちの活躍を期待したといいます。塾生であった須永はここで多感な青春時代を送り、留学生を通じてアジア問題に目を開かされました。須永は金玉均、朴泳孝など"大物"をはじめ多くの亡命者を支援しましたが、特に尊敬し、親交を結び、強い影響を受けたのは金玉均でした。金玉均との出会いがなければ、須永はあれほど朝鮮問題に関わることはなかったであろう、と言われております。わずか数十年の人生の中で、この様な人物に出会えた須永に対して、私は強い羨望の念を抱かずにはいられません。

 3.甲申の変と閔妃暗殺事件

 明治17年の12月に京城、現在のソウルで発生した軍事政変、いわゆる甲申の変に破れた金玉均、朴泳孝ら9人が日本に亡命してきて須永元との交流が始まります。[Image]朝鮮独立運動の志士と呼ばれた金玉均は、社会の教科書にも出てきたので知っている人も多いと思いますが、明治政府により冷遇され孤島である小笠原の父島に送られ、その後に北海道で幽閉同様の歳月を過ごしたのちに東京、最後には上海で朝鮮の刺客により射殺されます。その時の須永の日記には悲痛な文字で埋めつくされたと言います。話は戻りますが、須永は小笠原にいた金玉均と文通を初めて5年間、そして北海道から上京した彼を上野駅で迎えたのが最初でした。このとき須永元は22歳、金玉均は39歳でした。それから須永は金玉均の人柄と学識に魅了され、五年後に上海で暗殺されるまで佐野の須永邸に期間は不明ですが、かなりの日数かくまっていたようです。朴泳孝もたびたび須永邸を訪れていました。日本に亡命中の明治22年に撮影した朴泳孝と須永の2人の写真と、大正年間に京城の朴泳孝邸内で撮影した和服姿の須永と韓国服姿の朴泳孝の写真も残っております。朴泳孝は永年の亡命生活の後に帰国し、内部大臣となりますが、国内親衛隊の実権を手中におさめようとして失敗し、再び日本に亡命してきます。この朴泳孝との交友は最も長く、須永が晩年に京城を訪れ東大門近くの朴泳孝邸を尋ねましたら、彼は重病の床にいました。彼はその次の年に亡くなっています。
 昭和9年発行の佐野史跡写真帖、この本は宮内庁を通して昭和天皇に献上したものですが、ここには金玉均の居室と呼ばれた須永元の母屋と彼の書が載っております。[Image]この写真には2人の人物が写っていますが、須永と奥さんでしょうか。また昭和62年に佐野市郷土博物館で展示した須永文庫資料展、−須永元と明治の文人たち−の図録の中には、"老子の一節を送る"と題した金玉均の書と、"杜甫の詩を贈る"と題した朴泳孝の書、及び二松学舎の三島中洲の書があります。ここで良い機会ですから金玉均の「老子の一節を送る」の一部を口語訳で紹介しておきます。「聖人とは何か人の為になることをしても、その見返りをあてにせず、立派な仕事をしてもその成果にいつまでも満足せず、何かを望むということをせず、自分の偉さを人にひけらかさない人のことである」。さらに私たちが知っている人としては勝海舟がおり、「全快を祝って」と言う書を須永に対して贈っております。[Image]内容を同じく口語訳で紹介しておきます。「あやうく鬼の手から命をのがれましたね。須永元さんは、朝鮮に渡ろうとしていましたが、途中疫病にかかり、幸いあの世行きだけはまぬがれました。それを祝って。明治28年陰暦5月」。須永は朴泳孝と一緒に岡本黄石の紹介により赤坂氷川町の邸宅に勝海舟を尋ねています。
[Image]  その後明治28年10月に閔妃(みんび)暗殺事件が起き、その時に須永は京城にいましたが、幸か不幸か腸チフスにかかっていたために事件には巻き込まれませんでした。この時に出会ったのが禹範善と黄鉄です。禹範善と黄鉄はその後に日本に亡命し、禹範善については広島県呉市で惨殺され、その墓は一旦東京の青山墓地に葬られましたが、須永によって佐野の妙顕寺に移されます。黄鉄は過去帳によりますと東京本郷の東片町(ひがしかたまち)で亡くなっており、お墓は同じく堀米の妙顕寺にあります。佐野史跡写真帖には禹範善と黄鉄の顔写真と共にお墓の写真が載っております。またこの佐野史跡写真帖には序として須永が漢詩を寄せています。さらに須永はこの写真帖を作成するにあたり顧問になっております。

 4.田中正造との出会いから没まで

[Image]  須永元と田中正造は歳が27歳離れていたとは言え同時代の人ですから、各種の会合でときどき顔を会わせており、かなりのつき合いがあったようです。田中正造は須永元に対して書簡を寄せるなど、明治23年の田中正造の衆議院議員当選やその後の渡良瀬川鉱毒問題へ関心が深まるまで二人の関係は薄くなかったようです。その証拠に須永の日記には「田中来訪」とひんぱんに出てきており、須永の下宿に一泊したことも記されております。
 明治43年に韓国併合条約が調印され、この時から昭和20年までの36年間にわたる朝鮮半島に対しての日本の植民地支配が始まります。この併合条約により須永は「我が為(な)すことは終わりけり」として、それ以後政治には一切関与しなかったと言われています。日本の対韓政策への失望は、政治の世界へのうとましさを生み、この純粋な漢詩人の心にいつまでも影を落としたと言われております。しかし、東邦協会からの縁で頭山(とうやま)満の玄洋社・黒竜会員との交流の中で完全には政治の世界から離れることは無かったと私は考えております。その後は故郷の佐野に帰って農業経営を行います。その間にも漢詩を愛し、また書画や骨董にも相当な興味を持ち続けていました。
 時代は移り軍国時代の荒波にもまれて経済環境は大きく変わって行きます。この間に水車は電力モーターに取って変わられますが、須永家の対応は鈍く従業員の必死の努力にも関わらず経営は悪化して行きます。小山市郊外、現在の小山遊園地跡に創設した農場の失敗や会津に所有していた山林も手放すことになります。明治38年の佐野市内の債権者には「愛蔵の書画、衣類も入質(しち)せざるをえない状況。事業清算の上で朝鮮に渡り起死回生を図りたい」と書きましたが、朝鮮半島や清国での利権につながる事業計画も結局は実現には至りませんでした。さらには久慈川の発電所建設計画事業などにも手を染めます。しかし、激変する経済構造変革の波は農業、水車業を圧迫し、大正年代には出資先の銀行の倒産などもあり苦境に立たされます。
[Image]  こうして第二次世界大戦突入直後の昭和17年7月1日に妻のタミさんと実の妹であるマサさんにみとられて、75年の生涯を閉じました。葬儀は頭山(とうやま)満を初め全国から多数の政財界の有名人が参列し、妙顕寺において行われました。須永家は昔から水車業を営んでいたことから広大な屋敷の一角に水神様を祭ってありました。市が須永家から寄贈された跡地へプールを造る時に、大きな建物は壊されこのお宮も壊されると聞いた妙顕寺の住職が遺族から譲り受けました。立派な彫りもので飾られた白木づくりのおやしろですが、建造年度や作者などはまだ特定されていません。須永の死後は敗戦による農地解放を始め、税金問題もからんで遺族は思わぬ辛酸をなめることになります。やがて養子一家も仕事の関係から佐野を離れ、佐野と距離もあることからご供養がなおざりになることを案ぜられ、昭和42年に須永の骨は拾われて丁寧な供養を受けたのちに、妙顕寺から東京都内の日蓮宗の、あるお寺に移されました。さらに現在では遺族の都合により鎌倉霊園で永遠の眠りについています。

 5.須永文庫について

 元佐野市立図書館長、故・遠藤久三郎(きゅうざぶろう)氏の「須永文庫目録の序」には次のように書いてあります。昭和16年の晩秋に頭山満氏は、盟友の願いを受けて筆頭発起人となり、財団法人日朝志士記念会館を建設してこの資料を保存公開し、偉業を後世に伝えようとしたが、間もなく戦局の急変により計画は中断した。これらの資料は代表・広瀬仙蔵氏の財団法人日韓国士顕彰会によって管理されていたが、昭和37年の解散により須永文庫を一括佐野市に寄贈され、本館つまり佐野市立図書館のことですが、資料の一切を継承するに至った。当時は図書館とは申せ、独立の庁舎もなく、小学校の一隅を借りて開設していた。太平洋戦争の末期から約20年間、無人であった須永邸に死蔵されていたために、資料の中にははなはだしい虫食いや、雨風による汚損、糸切れ等により、ほとんど原形をとどめぬ程破損、散逸していたものもあり、整理は困難を極めた。昭和41年に洋装本約2,500冊を収録、「須永文庫一般書目録」を発行した。昭和43年より和漢古書の整理調査に精力的に取り組み、昨年これは昭和49年のことですが、一応の整理を終えた。資料は大別して、図書資料約13,000冊、特殊資料図書資料以外のもの約1,000点である。目録は、漢籍・和洋書・特殊資料の三部に分け、それぞれ冊子にまとめ配布する予定で、ここに第一集として「漢籍・準漢籍の部」を発行した、とあります。
[Image]  現在の須永文庫は佐野市立図書館には洋書装のもののみ収納されており、倉庫にある膨大な書籍を見せて頂きました。この本の数々を見ましたら、目録を読んだだけでははっきりとしませんでしたが、哲学、歴史、社会科学、自然科学、工学・産業、芸術、語学などありとあらゆるジャンルがそろっており、須永元の知識人としての素養が感じられました。また、佐野市郷土博物館には大多数の漢籍類その他に分けて保存してあり、館長のご厚意によりこれも見せて頂きました。これも量的に膨大にあり、これだけでも大きな倉庫が必要になる程です。豪農だったとは言え、良くこれだけのものを残したものだと感嘆せずにはいられません。これらのものは佐野市の財産であると強く感じました。同時に須永邸の模型も見せて頂きましたが、敷地の広さの割には建物の数が少ないと感じました。母屋と入り口の両端に倉庫らしき建物しかありませんでしたが、昔描かれた墨絵の須永屋敷の図を見ますといくつかの屋敷が描かれていますから、模型は市営プールを造る直前のものだと思われます。

 6.須永邸の跡地

 先日、須永邸の跡地に行ってきました。ほとんどが市営プールと駐車場になっておりますが、南側の一隅に日本庭園の一部が残されております。池だった場所には黄色と紫の花菖蒲がたくさん咲き、また周りには名前を知らない花々もいくつか咲いており、とてもきれいでした。これだけの庭園を作ることが出来たことからも須永家の繁栄が伺えます。約3メートル程の築山(つきやま)があり、この上に直径40センチメートルほどの形の良い松が生えておりました。この築山にはチャートだと思われる比較的大きな自然石がありましたので、この小山は自然をそのまま利用したのでしょうか。また、石碑が一つあり須永与右衛門の名が刻まれております。帰宅後に調べましたら、この石碑は屋敷建設記念碑の一部のようです。この場所は直径30センチから40センチ位の大木が数本あり、小さな林を作っております。[Image]これらの木々は在りし日の須永邸を偲んでいるのでしょうか。しかし、驚いたことが一つあります。それは、この日の夜に知人宅に行き、この日本庭園の写真を見たときです。この写真は十数年前のものですからこの土地はすでに佐野市のものになっていたはずです。この写真の植木は選定されておりとても素晴らしくきれいな日本庭園が写っておりました。それが現在では草がのびほうだいになっております。おそらく以前は公園として開放していたものだと私は想像しました。利用者が少ないので公園としての機能は維持費用の関係から不要だと考え閉鎖してしまったのでしょうか。角田(つのだ)氏もここを訪れており次ぎのような感想を書いております。「ゆるやかな起伏のある敷地内を歩くうち、私はその片隅に取り残された小さな池の水と築山を見出した。場所からいっても、もともと客間から見渡せる庭の主要な部分ではなかったであろうし、荒れるにまかせた歳月もすでに長く、見るかげもない一隅である。しかし、それでも江戸中期から続いたという旧家の格調は偲ばれた。"にわか成金"の豪邸が古くなっても、この奥ゆかしさは漂うまい」、と感想を述べております。
 今も須永邸跡地に残る日本庭園ですが、角田(つのだ)氏は次ぎのようにも書いております。「ここは二十代の須永元が、師とも兄とも思う金玉均につきそう形で共に散歩した場所であろう。秋の日差しににぶく光る緑色の池を眺めて、私は改めてこの二人に共通点の多いことを思った。朝鮮の最上流階級に生まれ、国王と自由に話の出来た金玉均と、旧家とはいえ日本の一地方の豪農・豪商の息子であった須永元とを『同じく特権階級の出身』とはいえないが、純粋で理想家肌の気質の前提には揃って"育ちの良さ"がある。二人とも美意識豊かな環境で成人している。さらに二人には共通の教養基盤を持っていた。儒教一辺倒の朝鮮に育った金玉均と語り合う上で、価値観その他すべてに抵抗はなかったと思われる」。

 7.須永元と明治の文人たち

 妙顕寺にお墓がある黄鉄のお孫さんである音楽評論家の田川律氏が佐野を訪ねた時のことを「祖父黄鉄を訪ねる旅」として発表しておりますので一部を紹介しておきます。栃木県佐野市の図書館に「須永文庫」と呼ばれる一連のかつて日本にいた韓国・朝鮮の人たちが残した作品、詩や絵画などが所蔵されている。すでに10年以上も前にいちど訪問したが、当時はまだ整理がすんでないということで閲覧が許可されなかった。あとで気がついたが、じつはもう10年近く前に、「須永文庫」に属する書画の展覧会がここで開かれていたのだ。ということはぼくが訪れたのはもっともっと前、ということになる。
[Image]  田川律氏の言った書画の展覧会とは昭和62年に佐野市立郷土博物館で開かれた須永文庫資料展−須永元と明治の文人たち−でしょう。この中には先に若干紹介しましたが、二松学舎を創設した三島中洲、甲申の変を起こした朝鮮独立運動の志士・金玉均、元彦根藩家老の岡本黄石、咸臨(かいりん)丸を指揮して太平洋を横断して米国を訪れた勝海舟、二度に渡り日本に亡命した朝鮮李朝末期の政治家・朴泳孝などの書が展示されました。書の素晴らしさだけではなく、須永元が交流したそうそうたるメンバーと歴史が伺えます。この時には多数の書とともに何点かの墨絵も展示されております。さらに平成3年5月に佐野市立郷土博物館第16回企画展−須永文庫−水墨・山水画展が開催されました。この時に展示された水墨・山水画は芸術に素人の私が見ても素晴らしいものです。これらの芸術作品の数々は、現時点では美術館を建設することには異論もあるでしょうが、仮に須永文庫専用の美術館を建設したとしても十分に鑑賞に耐えうるような優れた作品群だと私は思います。須永元自身の評価は各個人で異なる可能性もありますが、この須永文庫の美術品の数々が第一級品であり佐野市の宝であることに異論を挟む人はいないでしょう。この時に何点か展示された作者の一人にさきほど紹介した田川氏の祖父で今は妙顕寺にお墓がある黄鉄がいます。この人は明治28年の閔妃(みんび)暗殺事件に荷担して日本に亡命し、山口鉄郎と日本名に変え詩文・書画をもって各地を漫遊しました。その後に韓国統監伊藤博文の知遇を得て農商工部協弁となっております。しかし、日韓併合後は政治を離れ、日本に移住して書画の道に専念したそうです。彼は須永家をひんぱんに訪れ、書画会という作品頒布の集まりを開いている関係からこの佐野地方に彼の作品がかなり多く残されています。余談ですが、私は東京で墨絵展を見たときに、ほとんど黒の濃淡だけで描く墨絵の素晴らしさと奧の深さに驚かされました。まさに東洋の文化と言って良いだろうと思います。
[Image]  これだけの美術品と書籍類を残した須永元は平民の子だったとは言え、財産家だった上に、文化や芸術に並々ならぬ知的好奇心を発揮し、かなりの知識人であったと思われます。須永は慶応義塾に入学しましたが西欧の学問にはあまり関心を向けず、二松学舎時代にすでに秀才とうたわれた彼はその後も朱子学、陽明学を中心とした漢学に親しみました。しかし農業経営者としての須永の能力はいかがだったのでしょうか。父市重郎は元に家督を譲ったにも関わらず、なかなか佐野に帰って来ずに父をだいぶ困らせたようです。ただ水車業は"佐野割り"という大麦と小麦の加工があたって家業は順調でした。ですから須永の農業経営者としての能力は良くわかりませんが、結局は時代の流れに抗しきれずに須永家は衰退し、最終的には没落に近い形になってしまったのだと思います。そして須永元が精魂こめて収集した須永コレクションとも言うべきものを「須永文庫」として佐野市に寄附し、遺族の方々も結局は佐野を離れていくことになります。さらに最終的には須永文庫を残した須永元の墓も、ついには佐野から移されて現在に至っております。

 8.須永元の評価について

 須永元の人的な交流は国史大辞典に載っているような大人物だけでも、三島中洲、岡本黄石、三浦悟楼、田中正造、勝海舟、福沢諭吉、そして伊藤博文(ひろぶみ)などがいます。また李氏朝鮮王朝時代からの日本への亡命者だけでも。甲申の変に関与した朝鮮独立運動の志士・金玉均、朴泳孝、そして閔妃(みんび)暗殺事件に関与したとされる禹範善、そして黄鉄。これらに人物は全て日本の近代史を学ぶ上で避けることの出来ない人たちであり、それぞれが人物辞典に登場する人ばかりです。これらの人たちとかなり深い交流があったと言うだけで須永元と言う人物は注目に値すると思います。佐野市の近現代史を考える時、私が思うには田中正造を別格とすればこれほど歴史的な人物と交友を持った人物は他に見あたらないと思うほどです。この度、下野新聞社の栃木県歴史人物辞典で、佐野地方の人物を調べましたら、尚のことこの思いを強くしました。しかし、これ程の人物でありながら、しかもこれだけのものを残していながら、なぜ須永元に関する資料は私の探し出す努力が足りないのかも知れませんが、非常に少ないように感じました。私が入手した資料としては、知人なので先生とは呼びませんが、桐生市在住の藤沼博さんの数編の論文、元佐野市立図書館長であった故・遠藤久三郎氏の須永文庫目録の序、元佐野高校教諭・粂川信也先生の論文、そして佐野史跡写真帖などです。他にもいくつかありましたが、非常に簡単な記述だけです。角田(つのだ)房子著、新潮社出版の「閔妃(みんび)暗殺、朝鮮王朝末期の国母」には、作者が佐野市の郷土博物館で須永文庫を調査したことが述べられております。また彼女の「我が祖国」にも須永元のことがかなり詳しく述べられており、この書は約10年程前にNHKスペシャルで放映され、その時に佐野市の禹範善や黄鉄のお墓と堀米町の旧例弊使街道が映し出されましたから、知っている人も多いと思います。[Image]この禹範善の子供は禹長春と言い、東京帝国大学の付属校を抜群の成績で卒業し、白菜の改良や種なし西瓜の開発で素晴らしい業績を上げた人で、我が祖国の主人公です。須永元はこの禹長春の生涯にも多大の影響を与えたと言われております。
 では須永元がなぜ佐野市民の方々にあまり知られていないかと言うと、これは私の推定にしか過ぎませんが、次ぎのような理由からだと思うのです。それは、須永元が間接的に関与した甲申の変をとっても国内に様々な見解があります。歴史事典によりますと、甲申の変の性格をどのようにみるかは、朝鮮における自主的近代化への可能性の有無を規定する重要な問題となるとあり、日本近代史家の一部には甲申の変の推進主体としての開化派の役割を否定的にみて、朝鮮近代史における甲申の変の進歩的役割を完全に否定する見解がある、とあります。また、閔妃(みんび)暗殺事件においても韓国では知らない人がほとんどないにも関わらず、日本では知っている人が少なく、両国の間に認識の溝を感じます。さらに日清戦争、日露戦争があり、イギリス、フランス、ロシア、アメリカと日本の圧力が加わり朝鮮半島の政情は一段と複雑になっていきます。そして1910年、明治43年に日韓併合となり、朝鮮総督府がおかれます。そんな東アジアの政治状況の中で生きた須永元を、それなりに評価すると言うことは当然日本の政治状況を東アジアとさらには欧米列強の国々との関係も考慮に入れなければならず、評価のしかたによると極端な話、国際問題にまで発展する可能性もなきにしもあらずだと思います。そのような背景の中で、これまで善し悪しは別としても須永を評価する人が極端に少ない原因の一つとなっていたのではないでしょうか。

 9.須永元の願い

 私は須永元の次ぎのエピソードが彼の功績や評価を決める一つになりうると考えております。金玉均の23回忌を機に、頭山満らが大隈重信首相、寺内正毅(まさたけ)朝鮮総督に、金玉均の"日韓友好"の功労に対して贈位顕彰を建議し、これが帝国議会に提出されました。これに対し須永元は厳しい批判を向けて次ぎのように書きました。「朝鮮の今日あるのは居士の志に非ざるなり。居士の眼より視れば我が国は敵国なり。敵国より贈位せられたりとて何の喜びか之(これ)あらん」。金玉均の23回忌は1915年に行われたと書かれていますから、"日韓併合"により朝鮮が日本の植民地となったのはそれよりも5年前でした。その後に朴泳孝は日本政府から男爵という高い爵位を贈られています。[Image]須永はさらに「余善(よ)く居士の心情を解するもの」とも書いています。これは、金玉均が命を賭して求め続けてきた祖国朝鮮の未来図は、決して今日のような日本の属国としての姿ではなかった、と言う意味と解されています。それは須永自身の、日本の対韓政策に対する鬱屈(うっくつ)した心情、許し難いとする憤懣を語るものだとも言われて、彼が心の底から日本と朝鮮との友好を願っていたのはまぎれもない事実であると私は考えております。
 1945年、昭和20年に朝鮮半島の日本における植民地支配が終わりました。その後の朝鮮半島は朝鮮戦争により二つの国、大韓民国と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国に分かれました。日本の植民地支配が終了して55年以上経過しているにも関わらず、朝鮮半島の2つの国と日本は過去の暗く不幸な歴史をそのまま引きずり、決して良好な関係を維持しているとは言えないと思います。戦後補償の問題、従軍慰安婦問題、そして近頃問題になっている歴史教科書問題、靖国神社公式参拝問題、永住外国人地方参政権付与法案などがその都度問題になります。

 終わりのないむすび

 そんな中で、須永元が亡くなってからもう既に60年近い歳月が過ぎ去りました。まだまだ国対国とのわだかまりを取り除くには数多くの人々の努力と時間を要するとは思いますが、個人の業績を評価するには60年と言う年月は十分であると私は考えます。プロとアマとを問わず、須永文庫とは別に、あれほど政治の世界に首をつっこみながら自らは政治家にはならなかった人間須永元を、あらゆる角度から再研究再評価することが必要な時期に来ていると思います。藤沼さんも、私達は我が国の過ちを素直に認めると同時に、日本人の中には須永元のような人物もいたという事実を認めてほしいと願います。私財を投じ、一身の栄達を考えるよりも、亡命政客をかくまい、救援することに、彼等の意図する祖国独立のために青春のたぎる思いを賭けた人物としての須永元を正しく評価して欲しいと思います、と述べております。もちろん偉人化する必要は全くありませんが、その時代における適正な評価は必要なのではないでしょうか。人間須永元と言う人物を介して、日本と大韓民国と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国及びその2つの国の、在日の方々との真の友好を築くことができたら、鎌倉霊園で永遠の眠りについている彼もきっと喜んでくれるに違いありません。突き詰めれば、国と国との友好も結局は個人と個人の友好に行き着くと思うからです。
[Image] 須永元と言う人間があまりにも佐野市内で知られていないと感じています。せめて須永邸跡地には須永元に関する説明板位の設置くらいは最低でも必要なのではないでしょうか。まぎれもなく須永元は佐野市が生んだ人物であるし、そうすることが須永元から須永文庫をプレゼントされた佐野市民の責務のような気がしているのは私だけでしょうか。ぜひ佐野市としても須永元を、あらゆる角度から見直して頂きたい。そして出きうれば須永文庫の常設の展示館を、もちろん贅沢な建物は全く必要とはしませんが、佐野市民がいつでも須永文庫に触れられるような空間を設置し、朝鮮半島の2つの国々との真の友好に役立てて頂きたいと考えております。

                           2002年4月21日(日)


 藤沼 博さんを偲んで

 先日、須永元の研究では第一人者である藤沼博氏がお亡くなりになりました。私が昨年の6月議会で「須永元と須永文庫」について質問をしましたが、その時に藤沼さんの論文をたくさん参考にさせて頂きました。また藤沼さんとは安蘇史談会を通して知っていたのと議会での質問を行う上で論文に大変お世話になった関係上、6月議会のビデオテープと議事録を桐生市の自宅にお送りし、批判を仰ぎました。しかし、お返事は頂けませんでしたが、知り合いを通して「早く返事を出さなくては」と言っていらっしゃったと聞いております。
 藤沼さんの亡き今、佐野市が生んだ文人・須永元を少しでもたくさんの人たちに知ってもらう責務が、私にわずか生じたようにも感じましたので、昨年6月での一般質問の内容を加筆訂正し、ここに一つの作品として仕上げました。これを書くに要した膨大な時間の割には、満足いくものではありませんが、少しでも須永元を知ってもらうために役立てることができると考えております。または藤沼さんの供養にもなると考えました。
 最後に藤沼さんのご冥福をお祈り致します。