今年の秋は特に雨が多い年です。今も雨が降り続いています。こんな雨音しかしない秋の夜は、思索を楽しむのにもってこいの時だと思われます。
学校で学んだほとんどの事は役に立ちません。にもかかわらず学校が必要なのは、人生に於いて思索するための道具、知識を得られるからだと思います。この知識を使用し思索することにより、人生が限りなく豊かになるのではないでしょうか。思索する事は喜びであり、感動であり、生きること、そのものであるかも知れません。
例えば愛とか孤独について長時間思索してみましょう。それはある意味では自己との戦いである筈です。そんな時に昔の人はどう考えていたかを知りたくなり、本を読みたくなる人もいると思います。または友人に意見を聞きたくなるでしょう。その中で友情や愛情が育まれていくような気がします。
現代人はとかく忙しく、思索にふける時間さえ無いかの様です。しかし、時間が無いように思えるからこそ、わずかの時間の中でも思索することが非常に重要に思えてくるのです。
もし、この世の中に無限のものがあるとしたら、それは想いでしょう。想いこそは時空を瞬時に超えることが出来るのです。百億光年彼方の宇宙について思索する時、その想いこそは光の速度を超える事が可能なのです。
さあ、みなさんも思索の旅に出ましょう。
今までは人を行動に駆り立てるもの、それは愛とか情熱だと思っていました。むろんそれもあるでしょうが、もっと巨大な力は“怒り”である、と思うようになりました。怒りこそが、歴史をも変えうる力を持っていると思います。
真の怒りこそ、どんな理論にも説得にも動じない強さを持ちうるものだと思っています。ピカソは怒りによってあの有名なゲルニカを創造しましたし、正木ひろしは冤罪(えんざい)への怒りによってあの偉大な仕事を成し遂げました。また人々の怒りは革命へとつながることもしばしばです。
学校教育や家庭での教育では、もっぱら「怒ってはいけません」と教えることが多いようです。しかし、そんな事を言われても役に立つどころが、全く正反対の結果にさえなってしまうでしょう。
不正なるものへの怒り。その不正なるものに対して「そんなものだよ世の中は」と考える事からは、何も生まれません。まず最初に怒りを感じる事の出来る柔軟な心を持ち続けていること、それに怒りを行動に変えるエネルギーが歴史をも進歩させるのだと考えています。
私は、怒りとは常に自分より強いものに向けられるべきだ、と思うのです。強いものに向けてこそ、怒りは真の力を発揮する様な気がしてなりません。
感動。それは人間が生きる上で最も重要なものの一つであると思います。遊びの世界だけではなく、仕事においても人間は感動を求め続けているのかも知れません。単純化して言えば、人生とは感動を求め続ける旅であるような気さえします。
しかし、残念なことに感動は長く苦しい末に訪れますが、それが一瞬である点です。人間はその一瞬を夢見ながら、長く苦しい人生を歩んで行くのでしょう。そしてさらに残念な事に、同じことをやっても二度目は一度目よりもほとんどの場合に於いて、感動が少ないことです。これが感動の本質であり、それゆえに私達は新たな世界へと身を投じられるのかも知れません。
感動はその人が持っている瑞々しい感受性や、傷つきやすい心、優しさ、余裕、心の広さなどを土壌として、限りない努力を栄養としながら育つ果実ではないでしょうか。その果実は生きている喜びであり、生そのものでしょう。
やりがいや生きがいと言う事も、感動を求める過程で感じるものである筈です。ですから、絶対的な目的が無い人生に於いて、あえて目的を挙げるならば、「それは感動を求め続ける道程である」と極論することが出来ると思うのです。そしてそれは、あるがままの自分を見つめ、そして愛することから始まるような気がします。