佐野城築城400年

2002年4月23日
大川 圭吾

[Image]  1500年頃から1600年頃までの約100年間は唐沢山城が使われていましたが、今から400年前の1602年・慶長7年に当時の唐沢山城主・佐野信吉の時に現在の城山公園に移されました。現在の佐野城山公園に築城されたお城の名前は、「下野一国」によりますと、春日岡城と呼ばれていたようです。この地が春日岡と呼ばれていたからでしょう。佐野市教育委員会及び佐野市文化財保護委員会発行の歴史シリーズ3、つわものどもの夢のあと・佐野の古城跡によりますと、正式名を春日岡城、別名として佐野城としております。しかし、佐野市教育委員会が指定した史跡名としては佐野城の名前が使われていますので、ここでは佐野城を使用させて頂きます。
 では、なぜ唐沢山城から佐野城へ移ったのでしょうか。これには幾つかの説がありますが、最も有名なのが江戸大火説です。1599年・慶長4年江戸の大火を唐沢山城で見た信吉は、「すわ一大事」と馬を飛ばし、徳川家康にお見舞を申し上げました。家康は早速駆けつけた信吉の労をねぎらったまでは良かったのですが、「江戸は、わが城の下にありますゆえ、かく早くこられたのです」の信吉の一言に、「将軍を下に見るとはけしからぬ」と一喝され、ただちに山から降ろされたとの事です。また他の説としては、江戸の20里四方に山城(やまじろ)があってはならぬと定めた山城禁止令によるもの、佐野家へ養子に入った信吉が、自分の連れてきた家臣(かしん)のみを重く用い、佐野家に古くから仕えてきた家臣をないがしろにしたこと。また奥方との仲が悪かったことが江戸に知られたために、将軍は大名の統制上良くないとの理由で城を移すことを命じた、と言ったことなどが伝えられております。しかし、専門家の意見は異なります。この1600年前後は、時代の流れの中で不便な山中よりも米などの食料が採れ、また交通が発達している平野部へと城造りそのものが変化してきました。つまり、近世の城郭は江戸城に代表されるように、軍事目的やその他お城そのものの機能よりも領内統治という政治目的が優先し、この佐野としても例外ではなかったものと思われます。こうした理由により唐沢山城が高さの低い城山へ移った真の理由かも知れません。佐野市と姉妹都市を結んでいる彦根市においても全く同じことが言えます。
[Image]  しかし、この佐野城がこの地に造られた影響は佐野が城下町として栄える原点となり、考える以上に大きなものがあったようです。佐野信吉は佐野城の築工と平行して、天命の街づくりを進めました。そして佐野の中心部は今みるような碁盤目状の街づくりとし、町割りが終了したのは1600年・慶長5年2月と言われております。1600年と言えば関ヶ原の戦いがあった年です。市街の西端、秋山川を隔てて道路の突き当たりに、涅槃寺と厳浄(ごんじょう)寺、また近くには惣宗寺、少し東には観音寺、少し北方に妙音寺と興福寺とお寺が並ぶのは、臨戦態勢になった時に、これらのお寺に出城的な要素を帯びさせるためだったようです。同じことは、東端の徳雲寺と大雲寺、この大雲寺については道路建設のために移動しておりますが。そして北端の妙顕寺についても言えます。このような配置は近世の城下町については良く見られる配置であり、この佐野市は佐野城の典型的な城下町と言えると思います。
 城山に小さい頃から住んでいた茂木孝行さんは、平成12年に佐野ユネスコ協会総会の時の記念講演「唐沢山城から佐野城へ」と言う中で次ぎのように語っております。「秋山川を西の境とし浅沼城・観音山・東山を結ぶラインを東の境として、石垣の石を切り出すと同時に城下町周縁部の防御施設を築くなど、城下町の総構えを成立させました。また、佐野城が築かれる以前にこの地にあつた春日岡山惣宗寺を裏鬼門である南西隅に移転させて出丸としての役割を担わせ、鬼門である北東には八幡(はちまん)神社を勧請(かんじょう)し、城下町周辺部惣宗寺同様出丸的に諸寺を配しました。中心部においては京都に範を取った碁盤の眼状の町並みを整備し、佐野城や城下町が火災に襲われる危険性を考慮して、当初風上である城の北西で操業していた天命鋳物師達を城の南側に移住させることなど、まさしく佐野の都市計画の原点がこの400年前の城下町にあったといえるでしょう」。
[Image]  しかし、佐野城は築城からわずか12年後の1614年・慶長19年にお城は廃止されました。その詳細な理由はここでは述べませんが、直接の理由は突如領地を没収され、佐野信吉は信濃の国深志城主(現在の長野県松本市)、小笠原秀政のもとへ追放されてしまいました。以後佐野近辺は幕府、本多正純領を経て、1633年・寛永10年から明治期まで井伊氏の支配下に置かれました。その間城山は古城山として、あまり人の手が加えられずに明治を迎えました。ところで通説では佐野城は完成されないままで廃城になったとも言われております。しかし、廃城まで十年以上の歳月が経っていることや安蘇の山々から大量の木材が切り出されていること、さらには多量の瓦が丘陵から出土していることから考えると、城は完成した可能性が高いとの説があります。現在の城山公園や城東中学校の外側に位置していたお堀は、現在ほんの一部にその面影を留める程度で、ほとんどが失われてしまいました。しかし今から30年程前は、お堀の跡がはっきりと残っていたそうです。
[Image]  手元に明治40年の佐野町の地図がありますが、この地図を見ますと越名沼、別名阿曽沼と呼ばれましたが、この沼から続く湿地帯がこの佐野城の南側、つまり佐野市役所本庁付近まで延びていたのには驚かされます。またこの地図には今は無き旧佐野鉄道の線路が載っており、そして金屋仲町、大和町を中心とする佐野町が書かれております。
 いままで述べてきた通り、現在の城山公園に建設された佐野城は佐野の街が造られてきた原点であり、言葉を換えて言えば佐野城があったからこそ、現在の城下町としての佐野市があると言っても過言ではないと思います。ですから、これからもこの城山公園を市民の歴史のふるさととして大事に守っていきたいものです。

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