私が初めて葛生原人の名前を聞いた時は定かではないが、たぶん中学生の頃だったと思う。ある時、「東京の国立科学博物館へ連れていってやる」と親父から言われ、その中には「葛生原人の骨が飾ってあるんだぞ」と聞かされたのが最初のようだ。親父としては、生まれが葛生であるのでチョッピリ自慢してみたくなったのだろう。
それから数日後、科学博物館へ行き、葛生原人の骨を実際に見た。驚きも違和感も無かった。ただ興味と知識が薄かったので、驚きの感情が湧いてこなかったのだろう。
あれから十数年が過ぎ去り安蘇史談会と巡り会い、再び葛生原人と再会した。しかし専門家ではない私は、原人に対する科学的考察よりも、そこから付随的に考えさせられた事に対してのみ、ここでは述べてみたい。それゆえに題を「葛生原人」とはせずに「葛生原人から」とした。
1.葛生原人
安蘇史談会のメンバーと葛生原人の骨の発掘場所を訪れたのは、去年(昭和59年)の7月15日だった。道路からわずかの所にあり、立て札もあったことから場所は知っていたが、なかなか行く機会を作れなかった。現場に着いた途端に小雨が降り始めた。発掘場所は何故か金網で立入禁止になっており、「もしかしたら別の骨片でも発見できるのでは」と思っていた私の好奇心をひどくがっかりさせた。
葛生原人は約五十万年前に生存していたらしい。その五十万年と言うとてつもなく長い年月、その年月が私に非常に大きなロマンを抱かせた。当時の原人達の生活を想像する時(その生活は現在よりもづっと厳しかったに相違ないが)、夢の世界を浮かび上がらせる。それ程現在の生活が自然とかけ離れた処にあるのであろうか。
ここで読者のために葛生原人とは、どの様であったのかを要約しておこう。
1.現在までに発見された骨片は六点、上膊骨三点、大腿骨二 点、下顎骨一点である。 2.人骨とはっきりしているもの、年代に多少疑問があるもの、 人骨かどうかはっきりしないものがある。下部葛生層から 発見されたものは旧人に属すると考えられている。 3.原人はヨーロッパ出土のネアンデルタール人の古型に属し、 今から約五十万年前に生息していたと推定されている。
葛生原人について調べれば調べる程、多くの疑問点が指摘されている所に出会う。それの多くは、頭骨が発見されていないからだと思うが残念な事だ。この様な骨片が発見されている所が東日本文化圏では葛生だけだと言う点を考え合わせると、本当にほしい。史談会の誰かが、頭蓋骨を発見する為に努力してみたらいかがであろうか。
余談だが、日本列島は火山灰である酸性土壌である為、骨はきわめて残りにくい。骨が残る確率は一億分の一以下と言われている。葛生は石灰岩地帯であったので残ったのだろう。
葛生原人は色々な問題点がある事は前に書いた。しかしながら葛生町誌などを読むと、問題点や疑問点などはほとんど出てこなく、断定しているかの様だ。町誌と呼ばれるものでも、やはりお国自慢の域を出ないのであろうか。一般の人達は専門的な知識を備えてはいない。それゆえに広い見地に立った文章が望まれる。
とは言え、葛生原人は日本人の起源に多大なインパクトを与える可能性をいまだに秘めていると考えられる。新たな骨の発見を切に希望する次第である。
葛生原人の文献を調査するに従って「民族」について興味をもった。今日までに私が直接会った黄色モンゴロイド(黄色人種)について、以下に簡単に述べよう。
十三年前に北海道を旅した。その頃の私は「日本は単一民族国家」だと言う言葉に何の疑問も抱いていなかった。ただ誰でも訪れる観光地としてアイヌ部落を訪れたに過ぎない。
その時の印象としては特別に驚く事はなかった。老人ばかりだったし、アイヌ語を話すでもなし、住んでいる家だってもはや過去の遺物であった。老人だったからアイヌ以外の日本人と区別が付きにくかったのかも知れない。実際は毛深く、顔の彫りが深いそうだ。若い人であったなら、アイヌはアイヌ以外の日本人とはっきりと区別を付けられたに相違ない。
沖縄へ行った時は北海道へ行った時と大きく異なった。琉球人と言う呼び名は知っていたが、それは栃木県人に対する群馬県人くらいの違いと思っていた。ところが那覇港へ下船した途端に、人々の顔が私と大きく異なっている事に気がついた。色が浅黒く目が大きくマユが太く背が一般に低い。その相違はハッキリとわかる。
少数民族と言われているアイヌの時に感じなかったのに、同一民族と言われている(ほんとうかどうかはわからないが、琉球人と言う民族としての区別の仕方があるのか?)沖縄の人との差異を認めた。
誤解なき様に付け加えておくが、区別を認めたと言う事と差別とは全く異なる。第二次世界大戦の時、沖縄の人を差別したのは事実であるが、それは差別に区別を利用したに過ぎない。琉球人と言う呼び方が差別用語がどうかは知らないが、沖縄人ではピッタシとこないので、昔から使われている琉球人を使わせて頂いた。
私が思うに日本人は次の様に分けられる。
アイヌ / / 琉球人 日本人 \ / \ / 和人 \ \ 琉球人以外の和人
沖縄は民族的な事以外にも大変勉強になった。一度は訪れる価値がある場所だと思う。
フィリピンは「外国だから」と言う思いがあった。しかし、マニラ港に着船し、デッキからフィリピン人を眺めた時、想像以上に背がヒョロ高く足が長いのに驚いた。同じ黄色人種でありながら、日差しが強いせいか浅黒かった。ただフィリピン人は多民族国家であり、全てのフィリピン人を同列に論じる事はできない。背の低い人も色白い人も色々な人々がいた。混血も多かったようだ。
日本人が南方から来たと言う説を取れば、北上するに従ってかなり大きな変貌を遂げた事になる。はたしてそうであろうか。
ニュージーランドにはマオリ族と呼ばれる少数民族がいる。私達と同じ黄色人種である。私はフィリピン人より日本人に似ていると思う。琉球人と同じか、それ以上か。ニュージーランドも白色コーカソイド系が主であるが、かなりの人種の人達がいた。日本人が居て「あっ、外国人だ」と言われたり、その様な特別な目で見られる事はない。雑多な人種の中にあったからこそ黄色人種であるマオリ族を、特に私達日本人と似ていると思ったのであろうか。
第一印象でしかわからない事も多いが、逆にじっくりと見なければわからない事も多い。マオリ族の場合、見た人数及び時間が少なかった。私が会った人達がたまたま日本人と良く似ていたのかも知れない。
去年(昭和59年)に韓国へ史談会のメンバー四人で行った。
私には日本人と韓国人の区別が全くできなかった。しかし、全く同じ様でありながら、わずかに異なる様にも思った。ただどこが違うのかを指摘する事は出来なかったし、もし出来たとしても、個人差よりも小さな差異くらいだろう。平均的にはほんのわずかの差があるのかも知れない。………かも知れないと言う程度の差だ。
外見は同じ様であったとしても文化はハッキリと異なる。言葉から始まりアクセント、文字や食事、宗教まで大きく異なる。ややもすると、この言葉などが異なると言う事が先入観となり、顔もわずかに変わっているのだと思ってしまうのかも知れない。この先入観を除外して考える事は非常に困難な事だ。他の三人の史談会員のメンバーはどの様に感じたであろうか。伺ってみたいものだ。
いままで述べて来たどの人々よりも私達に似ていたのは韓国人であった。在日韓国人を見分ける事ができないのがこの事を物語っている。この様に考えると科学的根拠も何も無いが、日本人の祖先は主に朝鮮半島の人々と元が同じ人々ではなかったのか、と思えてくる。
現代の科学は人種の解明にまで驚く程の威力を発揮している。血液型、指紋の出現頻度、生体計測、血清蛋白や血球酵素などを利用する事によりたくさんの事柄がわかってきた。その結果、アイヌや琉球人は日本人の一つの地方型である事がしだいに明らかになって来ている。むしろ、近畿地方の人々の方が「特殊」な日本人であるらしい。
この様な事がわかっているにもかかわらずここでは、わたしは『感じ』で語って来た。「印象論」と呼ばれるものである。私は歴史とか人種とかは全くのアマチュアである。それゆえにアマチュアのみが語って良い一つの「世界」があると信じる。それの一つが印象論であるのではないだろうか。そしてアマチュアゆえに誰に気兼ねする事もなく、自分の思いをこれからも機会ある事に語って行きたい………と、思っている。
1. 葛生町誌
2.昭和57年 清水 辰二郎 葛生原人に就いて
3. 葛生原人郷土資料室案内
4.昭和59年 埴原 和郎 日本人の起源