白川郷 羽場家を訪ねて


 合掌作りの民家を見たくて、飛騨の高山へと旅だった。いざ着いてみると、高山には私の求めている合掌作りはその残骸を留めているに過ぎなかった。その残骸とは、人の住まなくなって取り壊される運命にある民家を再び立て直し、一ヶ所に集めそこを「飛騨民族村」として入場料を取り、ただ見せるだけの民家である。私はそこに一つの「民家の死」を感じた。民家は絵画のように視覚に訴えるべく創造された産物ではない。それは私達人間が共に生活し、共に年老いていく、そして共に死んでいく自然の一部であり、生活そのものなのだ。私は飛騨民族村に非常の大きな幻滅を感じながら、さらに奥の白川郷へと旅立つのである。
[Image]  白川郷は高山からバスで二時間余り奥に入った所にある。白川郷に入ると、生きている合掌作りがあった。今もその前で撮った写真があるが、それを見るたびにその時の感動が蘇ってくる。白川郷の近くにある現代最高水準によって造り上げられた御母衣ダムを見学した時の驚嘆もさることながら、やはり昔の人の知恵により作り上げられた民家に胸の奥から込み上げる感動を押さえることができなかった。
 それから合掌作りで有名な羽場家(現在は越中五箇山ユースホステルになっている)へと歩みを早めた。羽場家はバス停留所から歩いて二十分ぐらいの所にある。越中五箇山菅沼合掌集落を右に見ながら吊り橋を渡り、ただひたすらに羽場家へと向かった。紅葉にはまだ早いのか、または常緑樹が多いせいか、山はまだ緑一色に染まり私を吸い込んでいった。ただ気温だけは確実に秋の様相を呈し、冬の到来が近いことを告げている。しばらくすると羽場家は、深緑の中から忽然と姿を現すのである。その姿は完全に自然と融合していた。羽場家は自然であり、自然は羽場家であった。近代建築のように、自然から浮き上がった造形美ではない。完全に一つに合体し、自然と共に歩む姿がそこにはある。
 確かに民家は「美」を主体として造り上げられたものではない。しかし、私は美を目的として造り上げられたもの以上に美しさを感じるのである。その美しさは古さ、つまり年月が刻み込んだものであろうか。否、もしそうなら近代建築も時の経過と共に美の度合いを増すはずである。羽場家の美とは、『自然』『民家』そして『人間』の三つが完全に融合した時にかもし出される二次的なものなのかも知れない。
 中に入ると、漆黒の四角く太い柱は寡黙を保ってはいたが、私に非常に多くのことを語りかけている。それは何百年という時間の重さと、それを支えてきた偉大な人間の歴史である。老人は言葉少なに語る。「親父も、そしてその親父もこの家で育った。そして俺も息子も育ち、孫もこの家で育っていくだろう」と。その老人の言葉に、家に対する限りない愛情を感じる。いろりを囲んで語るうちに、昔からここに住んでいるような錯覚に陥っていく。そこには私達若者と、老人いう世代を超えた心の融合がそこには存在した。ただ、ただ嬉しかった。
 布団に入り、民家の息吹を聞こうとした。目を閉じると、厳しい気象条件及び地理的な条件に苛まれた人々が、必死になって生き抜こうとした姿がどうしても浮かんでくる。それらの生き抜こうをしている人々の美しさと、合掌作りの家の美しさが頭の中を交錯した。そして時間は現代から分離し、過去を彷徨(さまよ)い始める。
 いろりが石油ストーブに変わりつつある現代において、いつまでもこの「生きている民家」を保存しておいて欲しいという願いは、私達訪れる側から見たエゴであるかも知れない。しかし日本民族が生活の中から生み出した世界に誇りうる木造建築が、日増しに減少していくのは見るに耐えない。すべての物は、時間の流れの前には無力であるのであろうか。そんな空しい疑問を感じた。
 私はこの合掌作りのように、派手に目立つことはないけれども、冬の雪にも春の風にも夏の猛暑にも、そして秋の豪雨にも負けないような人生を歩んで行きたい。そして、時が過ぎゆくに従って、真っ黒い中からもにぶい光を放ち始めるような柱のようでありたい。また釘を一本も使わずに組み立てられていてもしっかりしているのを見ていると、人間関係の中において、いかに友情や愛情が大切なのか暗示しているかのように思えた。
 次の朝、このような感動を胸に秘めて、また新しい感動を求めて旅立った。後から私の旅立ちを見送っていた羽場家は、「俺もこれから来る冬に強く立ち向かっていかなくてはならない。おまえも真正面から人生に立ち向かって行きなさい」と、語りかけているように思えた。

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