歌人・升野浩一と現代短歌の潮流 「毎日のように手紙が来るけれどあなた以外の人からである」 升野浩一は最も有名な歌人といってもよい。1968年生まれで、短歌集『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』で歌人デビューした。前述の一首は「高等学校 国語総合」の教科書に掲載されている。(良い悪いはとりあえず置いといて)その作風は口語短歌といわれ、コピーライター糸井重里より「かんたん短歌」と命名されたほか、「マスノ短歌」などとも呼ばれている。同人に所属しないため、歌人としては異端視されることが多い。特に若者に支持されており、近年の「ケータイ短歌」「ネット短歌」と呼ばれる動きの礎を築いた。この人が言ってるのは①普段使っている言葉で詠む②基本は5・7・5・7・7③楽しくとらわれないで詠むということだ。簡単に言えば俵万智の短歌をさらに現代的に変化させたものとも考えられる。升野の作品と俵の作品を並べてみる。 ①嘘でした愛でした始まりのなかった嘘に終わりはあって ②好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君 ③「今いちばん行きたいところを言ってごらん」行きたいところはあなたのところ ④寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいる暖かさ ①②が升野作品、③④が俵作品。繰り返しの妙味や作り方、作品の視点はすごく似通っていると思うが、どうだろう? 「ケータイ短歌」「ネット短歌」から進化して近年には「BL短歌」という独特な分野が表れた。あっ、「BL」というのはボーイズラブの略である。 「ピンヒール、履いて中指のばすからアンタのすきなおしゃぶりにどう?」 「薔薇色の舌をねっとり寄せ合って奴隷制度のはなしをしよう」 「きらきらとふたりをつなぐ鱗粉を誰も知らない新宿の朝」 「あまりにも異なりすぎているゆえに傷口として合わす唇」 升野、俵作品よりかなり扇情的・官能的で性的な匂いがする。ネットに依存している、どちらかというとオタク的な若い女子が書き手の中心で、BLへの熱い思いや萌え・情熱・妄想を膨らませてそれを短歌に表している。一昔前アイドルと自分が恋に落ちるという究極の妄想小説を書いていた一部の熱狂的女子の底辺が短歌というより簡単な方法に変わってきたとも考えられる。前述の短歌をもう一度よんでみると、遠い昔の万葉の歌人たちの首にも通じているような気がするのは僕だけだろうか。やはり、日本人としての血が流れているからだろうか。 もう一度、升野浩一の話に戻る。 若いときから短歌をやっていた人で、1995年の角川短歌賞の候補になったことで有名になった。短歌作品の発表をネットを使ったその先駆けでツイッターで毎日のように発信し続け若者のツイートが膨大な人数になり、ネット上で「マスノ塾」という短歌講座を主催しその講座に入りたいという若者も殺到した。 この人はTVにも出演することも多く、教育テレビの短歌講座ではしばらく講師をつとめていた。話を聞いてもなかなかおもしろいが、とにかく、短歌作品も講座もわかりやすく親しみやすい。そこがネットと結びついて若者のから多くの支持を受けた。さらに、もしかしたら、自分も作れるのではないかと思わせてしまうのである。が、それは最大の誤解であると思う。 最後に、最初に取り上げた升野浩一の究極の一首を挙げておく。この首は離婚をした直後に詠んだそうである。 「絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい」 。 |
憧れ(種田山頭火 その1) 「山へ空へ摩訶般若波羅密多心経」 「酔うてこおろぎと寝ていたよ」 憧れ・・・ベタな表題である。その表題に対してさらにベタな文を書こうと思う。もうひとつ言うと歌人ではなくあえて俳人をあげる。 前記の自由律俳句は、憧れの人の中のひとりである(言い方をかえれば「憧れてやまない」)種田山頭火の二句だ。最近タイヤのCMの中で福山雅治が種田山頭火の俳句を詠んでいて、俳句を知らない人にも名が知られるようになってきた。漂泊の俳人、流浪の俳人、昭和の芭蕉と言われることもあるが、生き方、排風は芭蕉とはまさに真逆である。 女房に「種田山頭火って知ってる?」と聞いたら「知らない」と言う。前述のようなことを説明し、43歳で出家して行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅を続け夥しい数の俳句を作って、その俳句は自然に寄り添っていて生き生きしていて自由で、そういうところに憧れるんだ、と言うと、 「その人は、全部捨ててそういうことしてたんでしょ」と言い、さらに 「あなたはプライドとか絶対捨てられないでしょ。」 「一人じゃ生きられない人だし。」 「粗食に耐えられないし。」 「田舎は嫌いだよね。」 「きれいな心もない。」 「それに、信じていたり縋るものもないでしょ。」等々言いたい放題。でも、まったくそのとおり。 自分じゃできないし、やろうとも思わないからこそ憧れるんじゃないか・・・と思いつつ、いろんなことに不満を持ったり、ちっちゃなことに腹を立てたり、言いたくもなかったり思ってもいない建前を偉そうに言わねばならない場面もあったりして、改めてすごくちっぽけな自分自身に腹を立てている。 そうそう山頭火に憧れているって話だった。俳句に憧れているのではない。山頭火の生き方や自由さに憧れる。 種田山頭火 その2 前号で「種田山頭火」をとりあげたが、かなり薄っぺらく書いてしまい反省しきりである。山頭火の研究者に「何もわかってない」と怒られてしまうのではないだろうか。正直、私自身も山頭火についてあまりよく知らない。もちろん会ったことはないし、私は俳句の研究者でもない。が、もう一度山頭火について紹介していきたいと思う。 山頭火を語る上では、まず山頭火の経歴を知っておかねばならない。東京で生活したことはあるものの、西日本を拠点とし中国地方や九州を放浪したのでどちらかというと関東ではあまりなじみがない。(西日本に句碑は500以上あり、生涯で8万以上の句を残しているという) 略歴 1882年山口県防府市に大地主の長男として生まれる。11歳の時、母が井戸に身を投げ自殺。父の放蕩の末で大人たちの足の間から井戸から引き上げられた母の顔を見たという。この体験が後の放浪の要因の一つとも言われている。防府高校を主席で卒業し早稲田大学に入学するものの、神経症のため帰郷。このころ実家は没落。32歳の頃自由律俳句の会に参加し、季語や字数に縛られない俳句を目指す。43歳の時生来の酒好きが高じ泥酔し進行中の市電に立ちはだかり九死に一生を得る。その事件を機に出家。45歳で一鉢一笠行乞行脚に出る。以後59歳で松山に没するまでの約14年間を放浪と句作に費やした。 (ウィキペディアその他による) 以下、三句を取り上げ、話を進めていく。 ①「雪がふるふる雪見てをれば」 最近のタイヤCMから。福山雅治が出ているスノータイヤのCMと言えば思い出してくれるだろうか。画面に福山雅治の顔がアップになってこの句を詠む。この句は山頭火の孤独感が投影された句だと思う。山頭火の句や日記等を読んでみると、自身、孤独が大好きで孤独であることを楽しみながら、孤独から逃れたくてそのために膨大な量の俳句を読み続け旅先で日記を書き続けたのかなあと想像する。この句もその延長線上にあるような気がする。で、何故、福山雅治が山頭火の句を詠んでタイヤのCMなんだ?と誰もが思う。同じCMでもラジオのバージョンはすごい。男の声で「テレビを見ていたら福山雅治が・・・山頭火の句をよむ福山の声・・・タイヤのCMでなぜ山頭火なんだ?」何故を逆手にとったものだけど、このCMのラジオ。ロングバージョンはもっとおもしろい。 ②「今日の道のたんぽぽ咲いた」 ネットで「種田山頭火」を検索すると何番目かに『自由すぎる俳人「種田山頭火」の俳句がもはや俳句じゃない件 』というツイッターのスレッドに容易にたどり着く。山頭火の人物紹介の後に「その自由過ぎる俳句を紹介。というかこれは俳句なのだろうか?」 とのコメントがあってつぶやき系、哀愁漂う系、 何のひねりもない系、もはや意味不明系、弁当系等に分類されている。この句はつぶやき系に分類されている。スレッド主は山頭火がすごく好きで「これほどのレベルのつぶやきはツイッターでもなかなかない」「俳句は誰でもが作れ(季語や韻等々に縛られず)楽しめればいいんだよと山頭火がいっているようです」と結んでいる。 ③「捨てきれない荷物の重さまへうしろ」 ぼくのセレクトの一句。行乞行脚は「わたくし」を捨て仏の道への修行であり、自然の中で生きていくための旅のはずなのにふっと我に返ると沢山の思いを心に持って葛藤している・・・まさに、人間・山頭火の哀しさや寂しさが伝わってくる句でそうした思いをごまかすために酒をたくさん飲んで酔っ払って眠りについていたのかもしれない。 山頭火の日記、句は膨大な量で一度主な句をよんでみることをお勧めする。きっと気に入った句が見つかるはずだ。 |
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