参考 もう一つの卒業式 中学校でも小学校でも入学式を終え新年度が始まっていますが、少し時間を戻して卒業式の話です。 一般的に卒業式は午前中実施されますが、午後に2回目の卒業式を行った学校もたくさんありました。不登校傾向を持っていたり、たまたま当日怪我や病気で入院していたりして卒業式に出席できなかった児童・生徒のための卒業式でした。 校長室で、校長先生をはじめとした関係の職員と該当の生徒・保護者等が出席し実施されました。校長先生から卒業証書を受け取り、担任等から卒業にあたっての言葉をもらうというささやかな式でした。 保健室登校のA君は,集団のなかに入っていくことがなかなかできずに2年の後半から不登校傾向を示し、三年生になってやっと保健室だったら登校できるようになりました。卒業式も級友の中に入っていけず、2階のギャラリーから見守り、でも、一緒に校歌を歌い、礼をしていました。 二回目のの卒業式が終えてから担任が 「もう誰もいないから教室に行ってみるかい。」 と声を懸けると、彼は,三年になって初めて自分のクラスに行くことがでました。 「ここがA君の席だよ。」 と言われ、初めて自分の席に座って、 「これで全員揃った。全員無事卒業できる。」 と担任が思わずつぶやきました。 一年間彼を待っていた机と椅子がその主を得た瞬間でした。たった一度だったけれど。 A君もA君のお母さんもそこにいた全ての関係者が涙しました。 こうしたもう一つの卒業式があることもぜひたくさんの方々に知っていただきたいと思います |
焼鯖素麺(やきさばそうめん)とは滋賀県長浜市周辺の湖北地方に伝わる郷土料理。鯖素麺(さばそうめん)とも呼ばれる。 農繁期である5月に、農家へ嫁いだ娘を持つ親が忙しい娘を気遣い、実家から嫁ぎ先に焼鯖を届ける「五月見舞い」という湖北地方独特の習慣に由来する。農繁期に気軽に作って食べられる料理として、また客をもてなす際などのハレの料理としても伝えられてきた。湖北地方は内陸に位置するが、比較的近い地域に若狭湾という鯖の産地があるため、鯖は一般的な食材であった。もともと家庭料理であるが、最近では長浜の名物料理として観光資源化する動きがあり、観光客向けに焼鯖素麺を出す料理店も増えつつある。 |
BORN IN KIRYU We were born in KIRYU When the wind blows, the sunbeams shininng through the branches of the trees shake If you listen, you can hear the rippling sound of the river There will be the smell of treers when it rain It is such a town, The town of KIRYU where we were born 1971 Junir high. 3rd graders, We were young, pure and cruel Desagreeable things we could clearly say were disagreeable, hated perple we didn't talk to either The dry wind "KARAKKAZE" was blowing And a day was long The progress of time was slow and there was plenty of it That was maybe because therewere many new and attainable experiences... (ALT ナタリー先生・訳) |
山田先生が亡くなった。 真っ直ぐで義理人情に厚く昭和の気骨を持っていて桐生の名医、名物先生だった。私は数々の役職を持った公人としてではなく、医者として人生の先輩として恩人として山田先生に接していただいた。先生とは両親の時代からの付き合いである。特に父親は「頑固で、でも一本筋が通っていて気骨のある人で」先生と相通じるところがあって妙に馬があっていた。だから、父が亡くなってからはある意味先生が心の父だった。生まれてから今まで半世紀にわたってずっと診ていただいたということもある。 先生の鮮明な記憶ははるか昔から始まっている。個人的なことだがその記憶のいくつかを挙げる。 @とにかく腹痛で治らなくて母親が心配して盲腸かもしれないから切った方がいいと言っていたときに先生は「とにかく俺に任せろ」といってくれて次の日治って入院も手術もしなくてすんだ。ここから先生の記憶が始まっている。 A高校入試の当日、入試から戻ると38℃の熱が出ていた。入試は2日間あると思って先生はいの一番に往診してくださった。あのときのことは忘れられない。 B就職後、高熱と発疹で何か悪い病気かと心配して診ていただいて「おまえ、風疹まだやってなかったんだ」と言った時の先生のすごく嬉しそうで茶目っ気のある表情。 ウチの子どもたちもお世話になって下の子は生まれてすぐ気管支炎になって毎日先生に診ていただいた・・・後日譚として息子は堀マラソンの開会式で「最後まで走りましょう」という先生だからこそのシンプルかつ大胆なあいさつの言葉を聞いていたく感銘し、「あの先生は偉いんだあ」と驚いて帰ってきた。(先生はどの子どもたちにやさしく接して下さいました) 今も先生の様々な言葉を思い出す。先生の風邪の特効薬は「味噌汁と沢庵でちゃんと飯を食うこと」「早起きして毎朝一緒に走ること」「赤、白、黒の豆をちゃんと食べること」そして、晩年の机の中から出してくれる飴・・・。いつだったか先生は若かりし頃の奥さんとの出会いもお話ししてくれた。 ここまで個人的なことを書いてきたが、何より思い出されるのは桐生第一高校が優勝して桐生駅から学校まで先生が先導していたときのことだ。前述の堀マラソン等での開会式のあいさつ等々先生の声はまだ耳の奥に残っている。先生が亡くなって桐生の昭和がまた一つ過去になった。桐生にとって不世出の人だと思う。最後に先生にこの言葉をおくりたい。 「大好きでした。ありがとうございました。」(桐生タイムス掲載) |