プロジェクト グラッジ

 プロジェクトサインはメンバーを変更し名称も変わり「プロジェクトグラッジ」となった。 メンバーの「UFO肯定派」がいなくなり、すべての現象に対し合理的な説明をつけるようになった。 また。調査事実を秘密にしないで公表するとした事がサインと違う姿勢だった。
 この「公表」という行為は非常に公正で賢明な処置であったが、UFO事件が大衆に認知されるようになると、かえっていかがわしい噂や、ユーモア的な事件も発生するようになってしまった。 (アズテック事件など)そんなこんなするうちにUFO目撃情報も少なくなり、プロジェクトグラッジは1949年12月に担当の中尉1人を残して事実上休止する事となる。
 ところが、1951年9月にニュージャジー州の陸軍基地近くでUFO騒ぎが起き、これを発端としてプロジェクトグラッジが再開した。 (プロジェクトニューグラッジとする資料もある)責任者はエドワード・ルッペルト大尉、顧問にはアレン・ハイネック博士が着任した。 ルッペルト大尉は情報の流れの整理、書類書式の統一など、組織作りから着手した。 1952年3月、この組織が出来た時点でプロジェクトグラッジは終了し、プロジェクトブルーブックという名称になったのである。

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